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ペーター・シュレミールの快挙へ、鳴りやまない拍手を
大好きなお話のひとつに、シャミッソーの「ペーター・シュレミールの不思議な物語」があります。
現代日本ですと岩波文庫でのタイトル「影をなくした男」として有名なのかも知れません。私も学生時にこの池内紀さんによる訳本を読み、以降くりかえし愛読してきたものです。
本作を最初のページから読み進める読者にとって、「『影』とはいったい何の暗喩なのか」という疑問こそ、きっと道程の最良のお供でしょう。
しかし不思議なことには、最後まで、『影』の正体は明かされません。
『影』どころか、主人公が陥れられた不幸の意義につき、分かりやすい答えの示されることの無いままにストーリは終わりを迎えてしまいます。
むかし読んだ時分には、「結局のところ著者が何を言いたかったのかワケがわからん」という感想でしかなかった本作。しかしながら数年おきにふと存在を思い出しては読み返し、そのたびに抱く印象が変わり、愛着も増していきます。なぜ、好きなんだろう?
そして、ごく最近、またも読み返していた際に気づいたのですね、
「そうか、私にとって『影』の正体などどうでも良かったのだ。ただ、この悪夢のような運命に対して、打ち克とうと足掻いて足掻いて足掻いた末に、結局は“諦観”によって立ち向かうことを選んだ、シュレミールの生きざまが好きだったんだ」
と。
突如、陥れられた悪魔の罠。無力な個にとって、それに抗するなど、とうてい不可能なことでした。
たとえば過去に拘泥し潰れるも、打ち克とうと戦い続けるも、はたまた、何ごとも無かったかのように軽やかにも? 人の前には常に、行先の見えないドアが無数に並んでいるのでしょうが、自身の“これまで”と最も縁の薄そうなドアを敢えて開いたシュレミールに、私は喝采を送りたい。
その決断がつまり、シュレミールから悪魔と影への答えだったのだろう、と考えますが、いかがでしょうか。
本編に加え、岩波文庫版の巻末には、後年シャミッソーにより書き添えられた詩「わが友ペーター・シュレミールに」が載っています。以下に一部を引用します。
「人々は影のない君を嘲り、その嘲りは
なぜかぼくの上にも降ってきた
ぼくたちが瓜二つであったせいだろうか!?
彼らはこう呼びかけた、シュレミール、おまえの影はどこにある?
ぼくが影を見せたところで彼らは見えないふりをした
そして嘲りの笑いをやめようとしはしなかった
じっと耐え忍ぶ以外にはすべがないのだ!
咎なくしてと思えばこそ、心は安らぎを失わなかった
(中略)
シュレミールよ、ぼくたちはへこたれない
行く手を見はるかし、さえぎるものを容赦しない
立ち騒ぐ世間に目もくれず
ともにしっかり手を組んで
一歩でも目標に近づこう
笑いたくば笑え、謗りたくば謗れ
嵐のはてにぼくたちは港へ往きついて
心ゆくまま安らかな眠りを眠る」
引用は以上です。
シュレミール様、まさに“咎なくして”、あなたの七里靴はどこまでも魔法の力を失わないと思います、きっと。