樅木テレジア
Teresia Mominoki
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column

2014.12.07

秋津島、ものづくり随想『白石和紙』

我らが日本国の誇るものづくりの一技術である「手すき和紙技術」が、このたびユネスコの無形文化遺産に登録されたのは、読者諸兄の記憶にも新しいことだろう。

和紙。暮らしのなかで我々は、この和紙とどのように関わっているだろう。私事になるが、筆名の名刺を初めて作らせて頂くことになった際、私は何の躊躇もなく、名刺用紙に“和紙”を選んだ。その後数年のうち幾度かデザイン変更を重ねたが、用紙に関しては変わらず和紙を選び続けている。

 

さて「白石和紙」という紙をご存じだろうか。これまでその名を聞いた覚えがなくとも、「ミズーリ号での降伏文書に使用された紙」と言えば、膝を打つ方も多いのではないか。

1945年9月2日。東京湾上のアメリカ戦艦、ミズーリ号の甲板には、マッカーサーを筆頭とする連合国の面々が並んでいる。そこに姿を現したのは日本側の代表団。高らかに鳴り響いていた交響曲が突如音を落とし、静寂の中に日本人が歩を進めていく。ポツダム宣言を受け入れ全面降伏するという、苦渋の調印式に臨んだ日本側代表は、外務大臣の重光葵と参謀総長であった梅津美治郎。両者の心中は、我々現代人には永遠に見えぬところである。

この降伏文書に使われたのが、他でもない白石和紙である。むろん日頃より日本の文化と歴史を愛してやまない私にとっても、無視できない存在だ。

 

 

 

そもそも白石和紙の歴史は、伊達家の家臣であった片倉小十郎の治める白石城下で始まった。東北の厳寒の気候のなか、農閑期の副業として奨励されたのである。伊達家と片倉家の保護を受け、白石は手すき和紙の一大産地へ育っていく。しかし明治期の日本国内の紙需要の増加に伴い、手間暇のかかる古来の手すき和紙は避けられ、代わって品質の低い混ぜものの和紙や洋紙が隆盛に向かう。一時は300以上あったという紙すき農家も徐々に減り、白石での紙すきは廃れていった。現在は副業ではなく紙すき専業農家として、宮城県白石市に「白石和紙工房」が残るのみである。白石和紙が世から消え去ろうとしていたものを、今は亡き遠藤忠雄氏が技術再興し、その後、妻のまし子さんが工房を受け継いだのだ。

白石和紙工房の紙の原料は梶の木である。虎斑楮(とらふこうぞ)とも呼ばれ、他の品種と較べて繊維が長く丈夫なことが特徴だ。漉き方には「ため漉き」「漣漉き」「流し漉き」「十文字漉き」と四種があり、紙の用途によって使い分けられている。

降伏文書に採用されたことも大事件だが、白石和紙はその他にも様々な歴史のシーンで印象的な登場をする。日本画家の川合玉堂も、白石和紙を「蔵王紙」と呼び、自身の制作に好んで使用していたという。しかし通常の手すき和紙よりも、紙衣(かみこ)や紙布(しふ)の存在が、白石和紙が強い輝きを放つ理由のひとつである。

紙衣(かみこ)とは、読んで字のごとく、紙から仕立てた衣服のことである。この紙衣、デザイナーの三宅一生氏がパリ・コレクションで大々的に使用したことでも有名だ。また紙衣のなかでも特に薄手に柔らかく仕上げられた羽二重紙衣(はぶたえかみこ)ついては、現代の歌舞伎界でも活躍し、名優である中村扇雀氏が舞台で着用したこともあったという。

続いて紙布(しふ)だが、この紙布には、縦糸横糸の両方に紙を使用した諸紙布(もろじふ)と、横糸のみ紙を使用し縦糸には絹や綿など通常の衣服の繊維を使用したものの大きく分けて二種類がある。縦糸に絹を使えば絹紙布、木綿を用いれば紙布木綿となるのだ。

なぜ紙衣あるいは紙布が白石で発達したかと言えば、これはおそらく東北の庶民にとっては絹が高価であったことに由来すると思われる。植物の繊維を原料に作られる紙衣は、軽く扱いやすく、さらに安価であり、旅の荷物としても便利だった。かの松尾芭蕉も背負う荷のなかに紙衣を含め、奥の細道を旅し、書を綴ったという。

 

 

 

実はこの白石の紙衣が、全国的に著名な仏教行事を支えている。東大寺二月堂で厳寒の時節に行われる「お水取り」において、修行僧らが身に着けるのが、白石紙衣なのである。

お水取りとは、仏教でいう修二会(しゅにえ)という行事の、東大寺における別称である。修二会の意義は、悔過(けか)を通じて様々の祈りを仏に捧げることだという。この悔過、随分と聴きなれない言葉だ。非常に乱暴ながら、例えばキリスト教で言うならば「告解」にあたるだろうか。お水取りに通常の衣でなく敢えて紙衣を着る理由は、紙衣が植物由来という点にある。絹はむろん蚕が原料であるから殺生を伴う、それが修二会には相応しくないということで、東大寺では紙衣を採用したという。

紙衣とは原料の性質上、当然ながら絹や木綿よりも水に弱い。しかしお水取りにおける紙衣の出番は、まず和紙を水中で揉んで柔らかくし、絞り、それを平らに伸ばし反物にするところから始まるのだから、可能な限り強靭であることが要求される。これに適ったのが、白石和紙だった。気候条件のゆえ繊維が長く強く育つ梶の木を原料とすること、さらに繊維を縦横に組ませる十文字漉きという漉き方の存することが、求められる条件にまさに合致したのだろう。

 

 

 

さて今回の取材に於いて、ぐさりと胸に刺さった言葉がある。

「和紙は昔から農家の副業だった。寒い季節、あいた時間に手を余らせておくのを避ける目的で、ご近所で集まり協力し合って紙をすいた。和紙とは、その地方で育った原料で、その地方の工房ですくから『和紙』になる。国のものじゃなくて、その地方地方のものだ。『日本の和紙』とひとくくりにされるべきものじゃない」

これまで“我らが日本国の誇る伝統技術、手すき和紙”と堂々とのたまってきた自分のあまりの浅慮を、真正面から思い知らされた格好だ。

まし子さんは続ける。

「みんな『勿体ないから工房を続けてくれ』って言うけどね、うちは後継者もいないから。もともと紙すきは商売ではないしね。工房を株式会社にして、原料をどこか別の場所から持ってきて、大量に生産するのは、本来の紙すきとは違うよ」

私の名刺には確かに和紙を使用してはいるが、「どこそこの工房で作った」どころか、原料の所在も分からぬような代物で、おそらくまし子さんのおっしゃる“本来の和紙”からは程遠いものであると思う。

さらには名刺だけでなく、様々な場面で、私は日本製の紙製品を好んで生活に取り入れている。美しい四季の花が描かれた気に入りの便箋と封筒には「伊予和紙」の印字がある。誰かに少しの言の葉を伝えたいとき、文房具店の老舗「鳩居堂」の絵葉書を選ぶことが多い。和服を着る際には常に胸元に、繊維も目立つ懐紙がある。また生家は古い日本家屋だったが、毎年の障子紙の張替えの際には、大きく巻かれた和紙に慣れ親しんできたものだ。

しかしいくら和紙製品を愛用し育ってきたとはいえ、その製法も原料の出所も分からず、懐紙に至ってはあまりに当たり前に使用してきた為これまで「和紙である」という認識すらなかった。このように、私が日頃愛用している和紙製品に関して「大量生産の紙に過ぎない」と言われてしまうと、それも否定できない事実なのかも知れない。確かに、店頭で容易く手に入るものを購入し使用しているのだから。

それでは、大量生産の和紙を使うことには意味がないのか? 例えばエコロジーへの高意識を誇るための、再生紙使用の名刺、というものも存在する。名刺においていわゆる“エコの姿勢”を誇示したところで、実際に環境保全へ効果があるのかどうか、私には分からない。ただ、再生紙を好んで名刺に採用するひとがあり、再生紙製の名刺を受け取って話が弾むひともいる、ということはきっと事実なのだろう。

読者諸兄におかれてはビジネス・パーソンも多いことと思う。だからこそ書くが、伝統工芸品の需要創出は現代に即したビジネスにならないのだろうか。老齢者が担い手の中心となっている地方の伝統工芸の現場では、新たな視点が流れ込まれないことには後継者問題の解決すら儘ならないという、競争社会から取り残されたような所も多いのではないか。しかし昔ながらの確かな技術と、例えばITなどの若い技術が組み合わされば? 実際にネットを活用して新しい販路を獲得し、大小の差はあれど一応の成功をおさめている業界や工房も少なくないはずだ。さらに言えば、もしも金儲けにならないのであれば、それこそ国思う篤志家(もしくは地方思う篤志家)の出番であると感ずるのだが。

 

 

 

文化と伝統を守る。その目的のためには、「時代によって姿を多少変えてでも、とにかく名と実を残すべき」との考えもあろうし、また「本来の姿で無いならば、残す意義はない」、それにも一理あるのである。私は日ごろより日本文化への並々ならぬ愛情を公言する者だが、では文化保持のために何ができるかと自問自答することも多い。

無から、まったくのゼロから新しいものを作り出すことは、非常に困難な行為である。それこそ稀有な能力保持者の存在と、物理的に優位な状況が必須であり、しかし前述の条件が揃ったところで何より運が味方しないことには芽も出ず終わることも多いという、大博打以上の水物だ。対して、既に存する文化や伝統を守ることは、特別な能力を持つ者でなくとも十分に担える可能性が高く、ハードルも遥かに低いと言ってよい。

個々の力は小さいが、個が多く集まれば甚大な力を行使することも可能だ。それはあまりに当たり前すぎる言葉である。しかし至極当然であるからこそ、「自分ひとりは別に頑張らずとも良いだろう」と個を甘やかすのもまた、同時にこの言葉だろう。

自問自答はさらに進む。この小さな自分、私という存在に、自身のルーツを守るためにいったい何ができるのだろうか? 確かに日本国は戦争に負け降伏した、しかし大和の国まほろばの持つ独特の鮮烈な色彩は、変わらず残ったことだろう。政争と文化の絡み合うことが避けられぬ歴史の必然であるならば、敗戦国の民である我々は、せめて文化と伝統は守っていこうとさらに奮起するべきではないか。それが空に海に散った先人へ捧げられる、小さな償いのひとつにはならないか、と。

 

 

 

私は清少納言の詠む歌が好きだ。機智と教養に富み、ぱきりと強い個性を放つ作風を好んでいる。この清少納言が随筆「枕草子」において、

「みちのくに紙、ただのも、よき得たる。」

と書いている。「この「『みちのくに紙』が『みちのく紙』つまり東北地方産出の紙で、この流れを汲むのが白石和紙である」との意見もあるようだ。

紙とは、単なる物質ではない。文化や感性をその身に刻み、運び、広め、さらには後世に遺すという大役すら負っている。言ってみれば幾千幾万の文化芸術の担い手であり、歴史の生き証人である。

ミズーリ号での降伏文書調印という歴史の大事件の最たる目撃者であり、現在は罪の懺悔を通じ人や国の安寧を祈る「お水取り」を支える、白石和紙。日本人のひとりとして、私にはとても、白石和紙が廃れていって良いものには思えない。しかし、まし子さんの口にした「紙すきは“国のもの”というよりも、“その地方のもの”である」という言葉が、脳内に重く響きもする。

答えは見えない。が、さしあたって私は今後も、自身の名刺には和紙を用いていこうと思う。